Your Side of the Storyって奥が深い

「喧嘩両成敗」という言葉があります。これは、どちらが原因を作ったとか、どちらが先に手を出したに関係なく、ケンカをしたらどちらも悪いですよね、ということです。しかし必ずしも現実社会においては喧嘩両成敗ルールが適用されるわけではありませんよね。今日は、アメリカにおける喧嘩両成敗ルールがどうなっているのかをご紹介します。

目次

  1. 子供の学校では「喧嘩両成敗」
  2. Your side of the Storyって何?
  3. 必ずしもどちらが正しいとは言えない

1.子供の学校では「喧嘩両成敗」

子供の学校では、「いじめられたら、やり返せ。でなきゃ、ずっとやられる」という考えがある一方で、「喧嘩をするのはどちらも悪い」という喧嘩両成敗論もあります。その他にも、「やられてやり返すのは賢くない。だからやり返さない」という新興思想たるものもあります。

昭和女子としては、「喧嘩するのはどちらも悪い」と理想論を頭で理解していたとしても、現実には「やられたらやり返す」がベストの解決策だと考えてしまいます。

例えばドラえもんの中でのび太がいつもジャイアンにやられるのは、もちろん悪いのはジャイアンなのですけれど、のび太がジャイアンにやり返さないから、ジャイアンはいつまでものび太をいじめるのです。もしものび太が「うるさいジャイアン!叩くなよ!」といって叩き返していたなら、きっとジャイアンも「のび太を叩いたら叩き返されるかは、あいつには手は出さずにおこう」と考えていたかもしれません。

話がそれてしまいました。

息子がアメリカの学校に通い始めたのは、すでに15年以上昔になりますが、その当時からアメリカの教育シーンでは、喧嘩両成敗論がメジャーでした。そう考えている親がどれだけいたかは疑問ですけれど、少なくても先生方は、そのように生徒を指導していました。

「ケンカをしたらどちらも罰せられるから、するのをやめましょう」

というルールで利益があるのは、正直、ジャイアンだけです。だってジャイアンは、どんなルールであろうと、のび太を叩くわけですから。

「やられたらやり返せ!そうすればジャイアンを止められる」

と教えられれば、のび太はもしかしたらやり返そうという気持ちになれるかもしれません。しかし、「やられてもやり返しちゃダメ。だって喧嘩両成敗だから。」と教師から指導されたのでは、やられっぱなしの泣き寝入りです。

息子がキンダーだった頃、私は機会があって教室内のボランティアなどでよく学校に出入りをしており、先生ともいろいろな話をする機会がありました。息子の担任の先生は、言ってみるなら「OLD SCHOOL」な方で、教師はやり返さないように指導しろと言われてるけれど、やり返さなければいじめられっ子はずっといじめられ続ける、という考えでした。

ちょうど息子のクラスに、物静かな子が一人いました。他のクラスメートにからかわれたり、意地悪されている光景を、私も何回か目にしたことがありました。先生はその子に、「やり返さないとずっとやられるから、やり返せば?」と言ったようですが、その子はいつもやられっぱなしだとおっしゃっていました。

私もその子に聞いたことがあります。その子いわく、どんな状況でも暴力には反対だ、だから叩かれても叩き返したくないと。キンダーにしてそんな素晴らしい考えを持つなんてすごい!!しかし意地悪な子供がいる学校の中では、そうした素晴らしい考え方は自身にとって大きな障害になってしまうことは多いと思います。

ただ、それがその子の意見ですし、それで本人が納得しているのなら他人が口出すことでもないため、先生は一年中ずっとその状況を静観していらっしゃいました。

翌年度は息子とその子はクラスが別々になったので、その子がその後どうなったのかは分かりません。本人なりに解決策を見つけたことを願います。

2.Your side of the Storyって何?

ケンカの原因に関係なく両方を同じように成敗するというアメリカの学校では、当事者の言い分などは、全く考慮されません。しかし現実には、当事者のお互いの言い分を聞いたうえで、客観的にどちらが悪いのかを審判するケースは多いと思います。アメリカの学校でも、ミドルスクールやハイスクールなど年齢が上がれば、無条件に喧嘩両成敗ということはありません。それぞれの事情や言い分を聞いたうえで「追って沙汰を申す」となります。

その際によく耳にする言葉が「Tell your side of the story」です。これは、「あなたの言い分を言ってごらん」という意味ですね。もちろん、大人でも子供でも嘘をついたり事実を湾曲させる人はいます。しかし第三者が両者から言い分を聞き、その場にいた複数の人たちの証言を照らし合わせると、多くの場合には事実が見えてくるものです。

3.必ずしもどちらが正しいとは言えない

子供のケンカから大人のトラブル、裁判になるような事案まで、立場や見方によっては、必ずしもどちらが正しいか決められないことはあります。ここで、極端な例を挙げてみます。

その昔、救助ボートに乗って大海を何日も漂流している4人がいました。当然ですが食料も飲み水もなく、体力は日に日に衰えています。すでに漂流してから3週間近くたっており、このまま救助されなければ近日中に全滅という状況です。

そんな中、船のリーダーが提案しました。

「くじ引きをして、仲間が生きるために自らを捧げるのはどうだろうか?」

しかしその案は、多数決では賛成が多かったものの、1人が反対したため、見送りとなりました。

喉が渇いても、海水は飲むことはできません。海水を飲むことは、死を意味します。しかしどうしても喉の渇きに耐えられなかった1人が、仲間が止めるのも聞かずに海水を飲んでしまいました。案の定、その人はすぐに虚脱状態となってしまいました。

既にその人の命はカウントダウンの状態です。しかし亡くなるのを待っていると、他の人の命も危険なほど、全員が極限状態に陥っていたのです。

命の灯が消えかけている人は、自分を殺して食べてほしい、と言いました。全員がためらっていたものの、最終的には3人の命を救うために、死にかけていた一人を殺害するという結論にたどり着き、実行しました。はい、殺人をしたわけです。

彼らは、仲間が体を提供してくれたおかげで、救助船に発見されるまで命をつなぐことができました。しかし、陸に上がるとすぐに逮捕されて、裁判にかけられました。

ここで問題です。彼らが極限の状況で取った行為は、間違っていたのでしょうか。

「モラル」を何よりも大切だと考えれば、死にかけているからと言って人を殺して食べるなんて言語道断だとなるでしょう。

しかし「命」を何よりも大切だと考えるなら、放っておいてもすぐに亡くなったであろう人を殺して食べたとしても、1人を犠牲にして3人が助かったわけですから、それは正義だったと考えることもできます。極限状態においてはやむおえない決断だったのです。

ちなみにこれは、実際にイギリスで起こった事件です。そしてハーバード大学では、政治哲学のケーススタディとして取り上げられています。

子供のケンカからこうした究極の選択まで、私達が生きる上ではさまざまな困難があり、トラブルの当事者となることもあるでしょう。立場が変われば言い分も変わり、何が正しいと感じるかも変わるものです。

絶対的な正解がないからこそ、考えれば考えるほど奥が深い問題だなと思います。