アメリカ人が全員、ポジティブで明るい性格だと言っているわけではありません。性格なんてどの国でも千差万別ですから、ポジティブな人もいれば、ネガティブな人だってたくさんいます。
しかし私がこれまで接してきたアメリカ人を見ると、日本よりも「ネガティブなことは言わない」ことを徹底している人が多いような気がします。表面だけを見ると、「ネガティブなことを言わないように心がけてるなんて、素晴らしい国民性じゃないか!」と感じるかもしれません。確かに、表面上はそうでしょう。しかし私たちにとっては、この国民性のせいで、大恥をかき続けるリスクがあるかもしれません!
目次
1.ネガティブなことを言うなら、何も言わないほうがまし
アメリカの家庭では、他人に対してネガティブなことをいうのは悪いこと。それなら何も言わないほうがずっと良い、と教えることが多いようです。私が以前仲良くしていたママ友も、子供にそのように教えていました。
アメリカの家庭の中には、家族間でもネガティブなことはお互いに言わないというルールを徹底している世帯がたくさんあります。そうした家庭の中には、食事中でも「相手の顔色をうかがいながら発言する」ことが当たり前となっている所もあるのだとか。それが健康的な家族の形態かどうかは別として、ネガティブな発言をしないという徹底した教育を受けている人は、日本よりも多いと思いますね。
ネガティブなことは悪口だと考える人がいます。しかし、この2つは違います。例えば他人に対して
「そのヘアスタイル、全然似合ってないわよ」
「あなた、本当に運動音痴なのね。」
などというのは、ネガティブではなく意地悪です。そういう点は、思っていても口に出して言わないと徹底することは、素晴らしいと思います。
でも日常生活の中には、自分が間違っていたら正してほしいとか、他人の間違いを指摘するのが親切、ということもありますよね。例えば
「彼の名前はジムじゃなくてボブよ」
「あなた、パンツに穴が開いてるわよ」
などは、他人から指摘されると顔から火が出るほど恥ずかしいですが、指摘されないままよりもずっとましです。
私たちの英語に関しても、同じことが言えると思います。私たちにとっては、英語は母国語ではありません。話の内容はしっかりしていても、やはり文法的におかしいとか、aとかtheをうまく使えていないなど、指摘してほしい部分は誰にでもあると思います。
しかし、ナイスすぎるアメリカ人、こうした指摘すらしてくれないことが多いのです!
皆さん、よく言えば「大人の対応」でスルーするわけですね。きっと心の中では「間違ってるし。」と思いながらも、顔には笑みをたたえてやりすごします。
英語の発音や文法などは、誰も自分で間違っていると思いながら使っている人などいないわけですから、誰かが指摘してくれなければ、私たちはずーっと使い続けてしまうことだってあるのです。
2.Tab vs Tub事件

何事でもそうですが、間違ったものをそのまま継続していても、成長することはできません。英語という言語だけに限ったことではなく、なんでもそうですよね。
私は、今でもそうなのですが、aとuの発音がとても苦手で、単語のスペルを思い浮かべれば正しく発音できるのですが、そうでない場合には迷ってしまいます。
プラスチックの収納ケース、ありますよね?英語では、Tub(タブ)と呼びます。私は頭の中で、英語のTubではなくカタカナで「タブ」と覚えていました。冷静に考えればTubだと分かりますけれど、深く考えていないお友達の会話の時などには、とっさにスペルがtubなのかtabなのか分からなくなることもありました。
息子が通っていた小学校では、毎週PTOでポップコーンを作って販売するというイベントをしていました。私はPTOに参加していたので、毎週ママ友たちとポップコーン作りを楽しんでいたのですが、その時に、この「タブ」の話題になったのです。
私はおそらくその時、「Tab]と発音していたのでしょう。私とそれほど仲良しではない人は、笑顔のまま表情が凍り付き、別の人は目をおおきく見開いて「何言ってんだ、こいつ?」的な顔をしたのです。
そこで、私はとっさに気づきました。あっ、TabじゃなくてTubだ、と。
私と仲良しだったママ友がその時には気を利かせてくれて「もう、TabじゃなくてTubよ、Tub!」と私の発音をその場で指摘してくれました。でももしもあの時、彼女がいなかったらと考えると、今でも怖いですね。
その直後、表情をフリーズさせたママと、大きく目を見開いたママは、私のTabを修正してくれたママのほうを向いて、「(間違いを指摘するなんて)信じられない!」的な表情を見せていました。
彼女はそうしたママたちに対して、「彼女は良いの。仲がいいから指摘したって失礼にはならないのよ」とフォローをしていました。
3.太った子にデブと言ったらアウト

アメリカでも日本でも、太った子に対してデブと呼ぶのは、道徳的にアウトです。もちろん、デブというのは大半の場合には、生活習慣や食生活が原因なので、本人のやる気と正しい指導があれば、解消することはできます。本人の努力ではどうすることもできないブスとかチビなどとは、根本的な部分が違うと思います。しかし、何が原因かにかかわらず、モラル的にはどれもアウトでしょう。
息子が中学校の時に、デブに対してデブと呼ぶことは許されるのかという点が、クラスで話題となったことがありました。
「デブは生まれつきのものじゃないし、自己責任。デブと呼ばれても自業自得だ」
という意見もあれば
「先天性の疾患で太ったまま痩せられない人もいる。見た目では分からない。だからデブをデブと呼ぶのは悪いことだ。」
という意見もありました。
考え方や価値観の違いによる意見の相違、ですね。まあ、何が正しいかという客観的な正解はないにせよ、他人の心をえぐるような発言をあえてする必要もメリットもありません。その日の夜、我が家の家庭でその話題が出てきたときには、デブと呼ぶメリットがなければ避けるのが賢明という結論にいたりました。
4.指摘する人がいることは大切
こうした他人からの指摘に対して、感謝する人もいれば、不快に感じる人ももちろんいます。「英語」という言語スキルに関しては、私はできるだけスキルアップのためにも間違いは指摘・修正してもらいたいと考えるタイプです。
日本にある英会話スクールなら、インストラクターがきっと間違いを指摘してくれることでしょう。でもアメリカで実際に生活すると、指摘してくれる人はほとんどいません。「パンツにウンコついてるわよ」レベルの話ができるママ友以外は、おそらく自分自身の夫とか子供ぐらいしかいないかもしれませんね。
私は、結婚当初から夫に一貫してお願いしていることがあります。それは、私の言い間違いは、「どんなに小さなことでも」「その場で」指摘して欲しい、ということです。彼は「意味が通じていれば、別にそんな細かいところは気にならない」とおっしゃってくれるのですが、私自身が、間違った英語をノホホンと使い続けることがいやなのです。
もちろん、どんな表現方法で、どんな声のトーンで、どんなふうに指摘するかによって、私の受け取り方は大きく変わると思います。でも、指摘してくれる人がそばにいるということは、英語という言語スキルを伸ばすためには、必要不可欠な要素だと思います。